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東京地方裁判所 昭和28年(行)94号 判決

原告 株式会社淀川製鋼所

被告 中央労働委員会

主文

再審査申立人上岡正男、同山田友久、再審査被申立人(原告)株式会社淀川製鋼所間の昭和二十八年不再第五号不当労働行為再審査申立事件につき、被告委員会が昭和二十八年十月十三日言渡した命令中、上岡正男に関する部分はこれを取消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一請求の趣旨

主文と同趣旨の判決を求める。

第二請求の原因

一、被告委員会は原告会社に対し、昭和二十八年十月十三日別紙命令書写記載のような命令をなし、同月三十一日これを原告会社に交付した。右命令において被告委員会は、原告会社の再審査申立人上岡正男に対する解雇を組合活動を行つたゝめの解雇であると認め、原告会社に対し同人を原職に復帰させるように命令した。しかしながら、被告委員会の事実認定は誤つており、したがつて右命令は違法である。以下その理由を述べよう。

二、まず原告が上岡正男を解雇した理由を示せば次のとおりである。

(一)  原告会社の経理状況は昭和二十五年六月朝鮮事変の勃発に伴い、その余波をうけ比較的好調を持続してきたが、昭和二十六年八月頃鉄鋼界の不況とゝもに漸次悪化し、同年十二月以降その対策として、人員構成を適正にすべく配置転換を行い、経費を節減する等種々の打開策を講じてきたが、昭和二十七年四月には生産が需要の二倍を上廻り、売価は前年の約半額となつて屯当り一万円の赤字を生ずるに至つた。そこで原告は同月七日販売価格を設定し、販売量に見合つた生産計画を樹立し、右計画を実施するに必要な人員を一、三一三名とし、これを上廻る人員はすべて余剰人員となし、(昭和二十六年五月十五日現在一、七二九名)余剰人員を整理することにより経営上の危機を脱しようとした。しかし圧延部門、精整部門は重筋肉労働、高熱作業のため相当数の自然退職者が見込まれたので、この部門においては長期欠勤者、特に勤務成績不良な者を除き、整理を行わないことにした。そこで原告会社は次のような整理基準を定め、全従業員から被解雇者の詮衡を行つたわけである。

(1) 長期欠勤者

(2) 労働能率低位の者

(3) 懲戒処分をうけた者

(4) 定員制の実施による課別均衡の是正による配置転換不可能なる者

(5) 希望退職者

(6) 以上五項目に該当しなくとも、綜合的に低成績者で、常に業務上の指示に協力せず、職場能率を阻害する者及び責任度と誠意を欠く者

(二)  かくして原告会社は、昭和二十七年五月十五日第一次整理該当者として百五十一名を、同年六月十五日第二次整理該当者として九十名を、同年七月四日第三次整理該当者として八十九名をそれぞれ解雇し、結局はじめ予定した定員を上廻る従業員を解雇した次第である。原告会社が同年四月すでに基本的には前記定員を上廻る従業員を整理対象者と定めながら、これを三次にわたつて解雇したのは、整理計画の無定見に基くのでもなく、また新定員制を正確に実施しなかつたゝめでもない。当時の混沌たる経済事情のもとにおいて、できれば第一次整理でこの危急を切り抜け、整理対象者の数を最少限に止めたいという経営者としての悲願があつたからに外ならない。

(三)  しかして原告会社は、昭和二十七年五月十五日(第一次整理)上岡正男を解雇した。当時同人は工作課鉄工係熔接部に勤務していたのであるが、原告会社は第一次整理において工作課七十九名中十九名を整理することゝし、熔接部ではこれに所属する十三名中四名を解雇することゝしたのである。しかして同部における同人の成績順位は十三名中下から三番目であつて、熔接部から四名を減員するためにはどうしても同人をこれに加えなければならない有様であつた。即ち同人の経験年数及び勤続年数は同部の他従業員に比較して浅く、技術面からも、いわゆる古参権を尊重する立場からも、同人を整理対象者と定めざるを得なかつたのである。また原告会社は右整理に関し、課別に整理対象者に不均衡が生じないように留意した。すなわち課毎に成績一覧表を作成し、係ないし部単位では成績の低位なものであつても、これを課全体からみるときは成績優良であると判定される者に対しては、課内において配置転換を行い、整理対象者から除外することゝしたのである。(基準第四項)ところが上岡正男の工作課における成績順位は、同課七十九名中、下から十一番目に位し、同課から十九名を解雇するかぎり、同人に対し配置転換を考慮する余地は全くなかつたわけである。

(四)  上述したように、上岡正男は原告会社の第一次整理に際し、その成績が当然整理対象者の範囲内にあつたから、本来ならば整理基準第二項に該当するのであるが、同第二項は特に労働能率低位の者にだけ適用することゝし、上岡には同第四項を適用してこれを解雇したまでゝあつて、もとより同人の組合活動を理由とする解雇ではなく、いずれの点よりも労組法第七条第一号に関係ないのである。

三、しかるに被告委員会は、命令書理由(認定した事実)第三項において原告会社に組合介入的行動があつた事実を、同第四項において上岡正男が活溌に組合活動を行つていた事実を各認定したうえ、同人の所属する熔接部においては、すでに同人より順位の低い三名が解雇されているのであるから、同人が解雇されるには右三名を除いても、当該職場がなお人員過剰であつたことにならなければならないのに、この整理直後から同年九月にかけて、四名が熔接部に増員された事実(同第六項で認定)は、上岡正男が過剰人員でなかつたことを物語るものであるとし、これらの事実は相まつて上岡正男に対する解雇が、その組合活動の故をもつてなされたことを物語るものであると判断するのである。しかし原告はかゝる被告委員会の事実認定及び判断に承服できない。

四、命令書理由(認定した事実)第三項の事実に対して、

(一)  被告は、淀川製鋼所労働組合(以下単に組合という)は昭和二十五年までは比較的目立つた存在であつたが、同年末頃から沈滞におち入り、同組合及び執行部は昭和二十六年の飯尾課長左遷反対運動、昭和二十七年初頭における厚生費切下反対運動等の問題で、組合員大衆中に相当不満の声があつたが、何等適切有効な対策を立てず、なすところのない状況で終始した旨認定している。しかし、

(1) 飯尾課長左遷反対運動のあつたことは認めるが、右課長左遷問題は本来左遷ではなく、むしろ栄転なのである。昭和二十六年は各企業において、いわゆる経営合理化が強調された時期であり、原告会社においても、かような業界の情勢に対処し生産方式の合理化、冗費の節約、人員の適正配置をはかる等のために、まず監理部門として合理化審議室を設置し、これを母体として経営の合理化を促進しようとしたのである。かようなわけで右審議室は職制上の重要な部門に属し、現場の製鈑課長から初代室長に選ばれた飯尾課長は栄転といゝえても左遷などとはいえないのである。しかるに、非組合員に対する人事に介入したことのなかつた組合が、この転勤を左遷問題としてとりあげたのは、当時製鈑課において、後任課長に対する人事上の不満があつたこと、夏季一時金二万円の要求を有利に解決しようとする意図があつたからに外ならない。ともあれこれらの問題に関し、組合が被告のいうように無策であつたとは原告は考えない。なんとなれば原告会社は課長左遷問題、夏季一時金問題に関し、組合と前後三回に及ぶ経営協議会をもち、妥結に至らなかつたゝめ、さらに二回団体交渉をしている。その結果、「組合は会社の飯尾課長転勤を承認する。会社は夏季一時金として一万円を支払う。」という条件で妥結したのであつて、その間組合は闘争宣言を発し、或いはスト権を確立するなど積極的闘争を展開しているからである。これは過去において実力行使をしたことのない組合としては、相当活溌な組合活動をしたといわなければならないであろう。

(2) 次に昭和二十七年厚生費切下反対運動について、組合は別に反対運動らしい反対もしないで円満に妥結したことは認めるが、だからといつて組合が何等なすところがなかつたということはできない。というのは、これらの問題が起つたのは昭和二十七年三月であつて、原告会社の経営が極度に困難な時期に当り、あらゆる部門にわたつて経営の合理化を推進させていた時期であつた。そして厚生費問題の内容も、社宅、寮費の値上、交通費全額負担を一部従業員負担とすること、結婚祝金に勤続年数による差を設けるといつたものであつた。このうち、社宅寮費の値上、交通費の一部負担はその頃たまたま徴税方法が変更され、社宅、寮費が不当に安いときは、現物給与とみなされ課税の対象となり、交通費についても月額五百円以上になるときは、五百円をこえる部分については給与とみなされ課税の対象となるようになつたから、会社としては経営合理化の一環としてこれを徴税されないところまで社宅、寮費の値上を行い、交通費の一部を従業員に負担させようとしたのである。結婚祝金も従来一年以上勤続者に一率平均賃金の三月分を支給したのを一年以上五千円、二年一万円、三年一万五千円、四年二万円、五年以上一率二万五千円と改正しただけであつて、これも経費の節約という観点から行われたのであつた。これらの問題は広い意味で労働条件の低下であり、直接利害関係を有する従業員の中には反対の声もあつたが、組合としては当時の会社の経営状況を考慮にいれて、組合の正式機関にかけた結果、会社の現状においてやむを得ないものとしてこれを承認するに至つたのである。かような経営困難な時期に会社から提案した厚生費節減の要求を、組合が反対らしい反対もせず承認したからといつて、その組合活動が何等なすところがなかつたなどということはできない。またこの厚生費節減問題に関し、一般組合員の大多数が被告の主張するように不満の念を抱いていたならば、この問題が解決したのち、日を経ずして行われた役員改選の定期大会において、組合三役は上根副組合長を除き全部留任再選された現象を説明できないであろう。

(二)  被告は「この間会社の労務対策は組合との交渉を通じて行うよりむしろ、職制を通じ組合員の日常活動に直接関心を示す傾向になつてきていた」と認定する。しかしながら会社は昭和二十五年前であると後であるとを問わず、現在に至るまで組合の機関である委員会と交渉を行つてきたのであり、労働協約にしろ、さきに被告のあげた厚生費問題、課長問題その他すべてが委員会と会社との間で処理されたのである。したがつて職制を通じて交渉を行うことなどあり得る筈がない。更に会社は委員会を職制によつて支配した事実もなければ、かゝる意図をもつたこともない。委員会の構成は組合員によつて選挙された組合三役四名、常任委員九名、委員三五名乃至四〇名から構成されており、五十数名に及ぶ委員の大半を職制によつて支配することなど到底できる筈がない。また会社は組合員の日常活動に直接関心を示した事実はない。

(三)  被告は「昭和二十六年九月頃精整部から選出された小山、佐藤、曽我部の三名の委員が、それぞれ相ついで解雇されたので新たに同数の委員を補充選挙したのに、サカイ職長が別に同数の委員を指名して委員会の運営を混乱させた」と認定する。しかし昭和二十六年十月(九月とあるは誤記である)当時会社は佐藤栄を解雇したが、曽我部卯七、小山勉の両名を解雇した事実はない。右両名は本人の意思に基いて依願退職したのであり、また小山は委員ではなかつた。更に会社にはサカイ職長なる人物はいないし、職長という職制もない。会社は曽我部、佐藤両名の退職後、組合が同数の委員を補充したか否かは全く関知しないのであつて、会社がサカイ職長を通じて別に同数の委員を指名することなどあり得る筈はない。また仮に職長なる職制ありとしても、非組合員の範囲は主任以上であるから、組合員である職長が委員を推薦することはやはり一種の組合活動であり右指名が会社の指示によつてなされたという特別な事由が存在しない限り、組合員である職長が委員を推薦したからといつて、会社が労務対策を職制を通じて行つたということはできない理である。殊に組合における委員の選出方法は選挙によつて行われているのであるから、たとえ会社が同数の委員を指名したという万一の場合を考えても、それは職場における選挙に際し、たかだか候補者の数が増加するというだけのことであり、この意味で職場の選挙を混乱させたといゝえても各職場から選出された委員によつて構成される委員会の運営を混乱させることなどできる筈はない。

(四)  つぎに昭和二十六年十月八日組合役員選挙日の午後工作課機械係主任大橋弘一が同係の一員である清水隆美の教宣部長立候補を辞退するよう勧告した事実は認める。しかし、右辞退の勧告は会社の指示によるものではもとよりなく、非組合員である大橋主任が業務上の理由から辞退を勧告したにとゞまるのである。その業務上の理由というのは、昭和二十六年七月頃から会社は現在における業績の不振と将来におけるそれとを併せ考慮し、従業員に関する限り当座多少の不便はあつても、既存の人員をもつて業務を遂行するという方針であり、新規採用は一切これを行わなかつた。右大会当時機械係には約二〇名の従業員がいたが、仕事の量は相当多く三交替制を採用し、辛うじて支障なきを得ているという情況であつた。ところが組合大会の結果従来組合専従者でなかつた教宣部長を専従者にするという議案が可決されたのである。しかしすでに述べたように機械係においては、三交替制により漸く業務を遂行しているといつた有様であつたから、その係員である清水隆美が教宣部長に立候補して当選し、専従者になれば新規採用を認められていない当時としては、残る従業員に対する仕事量は当然加重され円滑な作業の遂行に重大な支障が生ずるおそれがあつたわけである。かような事情のもとで右大橋主任は清水隆美に対し、機械係における業務の都合を説明したところ、同人は自ら立候補したのではなく、他の組合員から推薦されたにすぎなく、自分としても機械係の現状はよく知つているから辞退したい旨述べたゞけであつて、大橋主任の言動は業務上の事由による以外の何ものでもなく、まして会社の指示方針によつたものでない。

(五)  被告は「同年十月頃組合員牛尾鉄三が一旦解雇を予告され、それが撤回となる前後総務係員有山某を通じ、同人に爾後組合運動を一切やらない旨の誓約書を請求し」たと認定するが、原告はかような誓約書を請求した事実は否認する。牛尾鉄三に対し会社は同人の出勤率が不良であり、且つヒロポン中毒のため他の寮居住従業員に迷惑を及ぼすという理由で解雇予告を行つたことはある。ところが、同人の紹介者であり、組合長であつた城戸三寿二から会社に対し、右牛尾は最近更生を誓い、結婚をして善良な従業員たるべく努力している矢先に、解雇ではあまりに気の毒ではないかと善処方申入れてきたので会社は事情を調査し申入れが事実であること並びに本人に改悛の情があると認め譴責処分に処し、将来を戒めたのが真相である。このとき会社は始末書を提出するよう請求したことはあるが、爾後一切組合活動を行わないといつた趣旨の誓約書を請求したことはない。

(六)  昭和二十七年春頃伸鉄職場の組合員本藤一に前記有山係員を通じ、当時組合長改選に当り前組合長城戸三寿二の対立候補として立候補した田中金吾を支持した組合員層の調査方を依頼したとの事実は否認する。まず第一に、田中金吾は自ら立候補したのではなく推薦候補である、第二に右有山が本藤と知るに至つたのは、有山の義弟が当時伸鉄工場に勤務しており、本藤も同所に勤務していた関係から、義弟が有山宅訪問の際同じ職場に勤務する本藤、藤本の両名を誘い来訪したからである。有山が本藤と語つたのはこれが最初であり、最後であつた。したがつて有山が初対面の本藤に対してさような依頼をするわけがなく、殊に本藤と同じ職場に勤務する藤本の面前で依頼する筈がない。事実有山は主張のごとき依頼をしたことはなかつたし、会社が有山を通じて田中金吾支持の組合員層を調査するよう命じたこともない。常識的に考えても本藤は単なる伸鉄工場の工員であるのに対して、田中金吾は製鈑課の社員である。また本藤は組合の委員にもなつたことがないほどであるから、組合関係を通じて田中金吾と交友関係のある筈もない。したがつて職場の異つた田中金吾の支持者など知つている道理がない。少くとも総務課で人事係を担当している有山がたとえ会社から右のような調査を依頼されたとしても、かような工員に対して依頼することなどない筈である。

(七)  次に片野総務課長が立候補中の右田中金吾方を訪問後、同人が立候補を辞退した事実は認めるが、その実状は次の通りである。すなわち、田中は昭和二十四年十一月二十七日原告会社の専務である浜田正信の義弟の浜田邦臣の紹介で原告会社に入社し、たまたま尼ケ崎市西大島の右邦臣宅に宿泊していた。片野総務課長は同人とも親交があつた関係で田中と知り合い、また仕事の面でも田中が製鈑課において安全衞生を担当した関係上、工場における安全管理者である片野と接触があり、親しい友となつた。ところが右田中が昭和二十七年四月八日風邪がこじれ急性肺炎になり、社宅でねているという話を聞知し、見舞品をもつて訪問したにとゞまる。見舞当時田中は約四〇度の高熱があり、立候補云々について話のできる筈もなく、田中がその後立候補を辞退するに至つたのも、その原因は本人の病状にあるので、片野の訪問にあつたわけではない。

(八)  被告は「本件発生後たる同年八月頃常任委員に立候補した組合員白井芳雄に対し、藤田工作課長は小畑某を通じて立候補辞退を勧告し、」「昭和二十八年二月頃書記長に立候補した前記白井に対し、岩佐総務課長代理自ら立候補辞退を勧告した。」と認定する。しかし、右両事実は訴外上岡解雇後の問題であつて、本件解雇問題と何等関係ないのであるが、まず藤田工作課長が立候補辞退を勧告した事実はない。また岩佐総務課長代理が白井に対し、立候補辞退を勧告した事実はあるが、それは次のような事情である。当時白井の職場は人員整理後多忙で、もし白井が書記長に当選し、組合専従者となれば直ちに業務に支障をきたすという情況であつたので、当時の大橋課長代理が岩佐に対し、何とか書記長立候補だけは思いとどまるよう勧告してもらえないかという話があつた。しかしその当時すでに上岡その他から提訴された不当労働行為事件は大阪地方労働委員会に係属中であつたので、岩佐は同人に対し極力誤解されるおそれがある旨話し断念するよう申しつけたのであるが、同人は業務上必要だからどうしても一度総務部次長である岩佐から話をしてもらいたい旨再三申出たので、やむなく同年二月二十二日白井に対し、課長らの作業に対する配慮を話したわけである。その際白井は作業上困難なことは了承しているが、自分は当選する資格もないし、また何はともあれ皆におされてやつているのだから、自身の意思通りにはゆかないとのことであつたので、そのまゝわかれたのである。かようなわけで辞退の勧告とはいつても勧告というほど強い趣旨のものではなかつたし、それも作業上やむを得ない事由に基き話したにすぎない。時期的に考えても上岡らについて不当労働行為事件として審理中のことであるから、それが被告主張の如き趣旨でなかつたことは明らかである。およそ組合専従者を定めるには常に会社の業務上の都合が配慮されねばならぬ。この会社の都合を表明することは不当労働行為とはならない。

(九)  つゞいて被告は「このような会社側の動きや組合執行部の弱体に対し不満をもつた職場の組合員は職場会議等職場における組合活動を通じて組合執行部を鞭撻したが、これが漸次会社の注目をひくにいたり、松原課長、藤本伍長、来栖伍長、公文主任らの職制上の役付者はしばしば職場の組合員に職場会議をもつな、もてば結局その部署全部がにらまれるし、動く者はクビになる等の言動を行つてきた。」旨認定する。しかし被告の主張はまず時期的に不明瞭である。というのは、もし右の役付者の言動が昭和二十八年二月頃までを指すとするならば、藤本、来栖の両伍長は上岡と共に解雇されているから、この両人に関するかぎりその主張は事実に反する。また組合員は職場会議等において執行部を鞭撻したというが、会社はかような組合員の言動を一切知らなかつたから、会社がこれに注目した事実はない。殊に松原課長、公文主任が被告のいう如き言動を行つた事実はない。藤本、来栖両伍長はいずれも組合員であつて、同人らが組合員としていかなる言動をとつたかはしらない。しかし会社が両伍長に命じて被告のいう如き言動を行わせたことは一切ない。

(十)  最後に被告は「これらの事情のもとに昭和二十七年四月成立した城戸三寿二を組合長とする執行部は、後記五百円賃金削減問題及び人員整理問題をめぐつて特にたかまつた下部組合員の不満のため同年八月二十一日の臨時大会で不信任をうけ総辞職するにいたつた。」と認定するが、昭和二十七年四月成立した城戸三寿二を組合長とする執行部が同年八月二十一日臨時大会で不信任をうけ総辞職した事実は認めるがその余は知らない。

五、命令書理由(認定した事実)第四項の事実に対して。

被告は上岡の組合活動について、同人は「昭和二十三年組合青年部役員に就任以来、在任中は勿論青年部解散後も組合の職場組織において継続的に活溌な組合活動を行つてきたものと認められる」旨認定し、その裏付けとして五つの例を挙げている。しかしてそのいずれも次に述べるように事実に反する。

(一)  被告は「上岡は昭和二十三年九月青年部委員に選出され、情宣部面担当委員として青年部機関紙の編輯を行う等組合員の啓蒙活動に従事したほか、昭和二十五年四月の賃金引下げ反対寮生デモを指導した。」と認定する。しかし会社は上岡が昭和二十三年九月青年部委員に選出されたか否かは知らなかつた。殊に青年部は組合の一組織として存在したわけではないから、上岡は組合の正式役員となつたわけではない。組合の正式役員でない以上、上岡の名前が組合から組合役員として会社に通告されるわけがなく、会社がこれを知らなかつたとしても何等不審はない。しかも被告の右認定が真実であつたとしても、それは本件整理より四年も前の事柄であつて、上岡の解雇に関し会社が右のような行動をいちいち考慮するわけはない。また上述したように、会社は上岡の青年部委員就任、機関紙編輯等のことについては一切これを知らなかつたのであるから、かような上岡の行動を整理に際し考慮にのせる筈もない。つぎに昭和二十五年四月の賃金引下反対寮生デモであるが、その頃工場内及びその周辺でデモ行進が行われたことは一切なかつた。したがつて被告の主張するデモが仮に行われたとするならば、それは全く会社の関知しない遠隔の地で行われたというのほかなく、上岡がこのデモの計画に参与しビラを貼りデモの先頭に立ちこれを指導したなど一切会社の知らないところである。また当時給与体系の改正はあつたが、これは実質的に賃金の引下げとはならなかつたので、組合として反対の態度もなかつた。

(二)  被告は「昭和二十五年末の青年部解散以後、上岡は昭和二十六年八月飯尾課長左遷問題および夏期一時金闘争に際して職場内で積極的に行動し」たと認定する。昭和二十五年末青年部解散の事実は認めるが、課長左遷問題については上述したように組合並びに執行部が活溌な活動を行つたことは事実であり、職場会がもたれたことも事実である。しかし右職場会で上岡が活溌な発言をした事実はない。また同人の職場では組合が闘争態勢に入つたゝめ闘争のための職場闘争委員三名ないし五名を選出したが、上岡は職場闘争委員にも選出されなかつた。

(三)  被告は「上岡が昭和二十六年十月頃同じ職場の組合活動者牛尾鉄三解雇問題では職場においてその不当を追及して組合幹部の適切な措置を求め、結局会社をして撤回に導く有力な動機を作つた。」と認定するが、この点については前に詳述した通りであつて、上岡が撤回の有力な動機を作つたわけではない。しかし牛尾事件については職場会がもたれ、その空気が牛尾解雇に反対であつた事実はある。それは牛尾が更生を誓つていたこと、更生の一転機として結婚したこと、解雇予告がたまたま結婚間もない時期に行われたこと、鉄工の人員が減らされては困るなどの事由があつたからである。しかし右職場会において上岡がその不当を追及し積極的に発言した事実は一切ない。

(四)  被告は「上岡が昭和二十七年二、三月の厚生費切下げ問題でも職場会議で反対の決議に導いた」と認定する。しかし厚生費問題についてはすでに述べた通り、また上岡が右職場会議で活溌な発言を行い、会議の決議を左右したなどという事実は一切ない。

(五)  被告は「上岡は昭和二十七年五月初旬会社が実施しようとした賃金中の生産給五百円削減問題でも、同月五日以降連続的に開かれた職場会議で反対の先頭に立ち、十四日の同会議で十三日に会社案を承認するにいたつた執行部を職場全員で激励することを提案し、それが可決されるや翌十五日代表者の一員となつて組合事務所で組合長ら組合幹部に強硬な反対を推進するよう申入れる等のことを行つた。」と認定する。しかし右は事実に反する。まず五百円削減問題で会社案を承認したのは執行部ではなく、かような交渉について組合から妥結、決裂の全権を委任されている組合大会にかわる委員会によつて同月十三日承認されたものである。次に上岡が組合長に強硬な反対を申入れた事実もなく、職場会議において活溌に発言した事実もない。かように五百円削減問題は組合機関によつて承認されているのであるから、たとえ上岡の十四、十五日の行動が被告認定の通りであつたとしても、それは一種の分派行動であり、特に取り立てゝ論ずるに値しないものといわねばならない。また会社は同年四月整理人員を決定するための解雇者名簿を作成しているが、上岡は当時すでに整理対象者として記載されていた。(整理者名簿の人員が全課にわたつて確定されたのは五月十日である。)したがつて詮衡が終つた後に生じた右問題について、会社がこれを考慮に入れる筈はない。

六、命令書理由(認定した事実)第六項の事実中、本件人員整理後四名の従業員を熔接部に増員した事実について。

(一)  被告はこの整理直後同職場に現場事務員森口猛輝を増員した旨認定する。しかし昭和二十六年十二月現在の工作課員成績一覧表にも同人の名は記載されているし、同人が入社以来工作課において火造、熔接の現場監督兼製図を担当していたことはかねて人の知るところである。もつとも昭和二十七年三月原告会社は製図についてこれが担当者を専門学校卒業者以上に限定した結果、甲種工業出身の森口が現場監督に専心するに至つた事実はある。しかし右は兼務を解かれたに止り、被告の右認定は事実に反する。

(二)  被告は熔接部門人員不足のため昭和二十七年九月ロール課所属ガス熔接工湯浅勝海を工作課熔接部に配転増員した旨認定する。たしかに原告会社は右湯浅をロール課より工作課に配置転換した。しかし原告会社が同人を工作課に配置転換したのは、分散している同一職種の従業員を同一の課に統合することにより経費を節減し、能率を向上させるという経営合理化の一環として行つたゞけであつて、工作課鉄工係熔接部の人員が不足しているから、これを補充する目的で行つたわけではない。したがつて同人は工作課に配転されてからも依然ロール課の熔接作業に従事しているわけである。

(三)  被告は臨時に請負工一名を電気熔接工として使用したと認定するが、右事実は否認する。

(四)  被告は「更に又同年八月組合役員総辞職で専従をとかれた城戸三寿二は当時すでに六十才で就業規則による停年(五十五年)をすぎていたにもかゝわらず右熔接部に復帰している事実がある」と認定する。熔接のような特殊な技術と熟練が要求される職場にあつては技術保存の立場から停年を過ぎた後も本人の意思により、そのまゝないしは嘱託として引続き雇傭される例は多いのであつて、原告会社においても余人をもつてかえ難い人物は停年後も引続き雇傭している実情である。城戸は熔接において特殊技能の持主であつたから停年後も引続き雇傭してきているのである。また専従期間中も従業員であることに変りない同人を専従が解かれたという理由で解雇することは、かえつて不当労働行為の存在を推測させるであろう。さらに原告会社は同人を熔接部門に復帰させた事実はない。右城戸が専従が解かれた昭和二十七年九月当時は熔接部門の人員配置は増員を要する情況になかつたから工作課に復帰した後は工作課において事務処理を担当させているのである。

七、命令書理由(認定した事実)中第一項第二項第五項の事実は認める。たゞし第五項中第二次の人員整理が六月十八日とあるは六月十五日、会社が五月十五日正午頃電話でとあるは五月十四日の誤である。

八、同第六項中、上岡は整理基準第四項に基き就業規則第三十六条第一号「事業縮小又は事業上の都合による」ものとして解雇されたこと、整理基準はまず第一、第三、第五項について詮衡し、次に第二、第六項について詮衡し、最後に第四項が適用されるのであるから、第四項は他の五項目該当者を解雇しても職業別になお過剰人員は残る場合にはじめて当該職場内の各人の成績を比較して低位者を解雇する趣旨であること、工作課鉄工係熔接部は四名の被解雇者を出したが、右の基準をあてはめると森石親光は長期欠勤者(第一項)牛尾鉄三は希望退職者(第五項)奥山好之助は見習工(第二、第六項)であつて上岡は最後位の第四順位であつたことは認める。

九、以上述べたように、上岡正男の組合活動は直接解雇の原因となる程会社の嫌忌に値する顕著なものでなかつたが、仮に百歩を譲つて上岡の組合活動が継続的且つ活溌なものであり、そして会社が事実これを嫌忌していたと規定しても、それだけでは未だ不当労働行為は成立しない。不当労働行為の成立には不当労働行為意思の存在することが必須の要件である。原告会社にかような差別待遇意思のなかつたことはもちろんのことであるが、更に重ねて百歩を譲つて原告会社に不当労働行為意思があつたと仮定しても、未だ必ずしも不当労働行為が成立したとは言えない。要は解雇基準に該当する事由が解雇に対し決定的のものであつたか否かにかかつているのである。したがつて不当労働行為の成立するためには(1)当該労働者の組合活動が正当なものであつたこと(2)この組合活動を会社が嫌忌したこと(3)差別待遇意思即ち不当労働行為意思のあつたこと(4)この不当労働行為意思が他の理由に基く解雇意思よりも強力であつたことを要する。しかるに被告はその何れをも綿密に検討することなく原告会社の上岡に対する解雇を不当労働行為と認定し前記命令を発したのである。よつて本件命令中上岡正男に関する部分は違法であるからその取消を求める。

第三被告の答弁

一、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」

との判決を求める。

二、請求の原因第一項中、本件命令において被告は、原告会社の再審査申立人上岡正男に対する解雇を組合活動を行つたための解雇であると認め、原告会社に対し同人を原職に復帰させるように命令したことを認め、その他の事実を争う、本件命令書は昭和二十八年十月十三日の第一七三回公益委員会において合議成立し、同月三十日に原告会社に交付されたのである。

三、(一) 請求の原因第二項の(一)中、原告会社の経理状況は昭和二十五年六月朝鮮事変の勃発に伴い、その余波をうけ比較的好調を持続してきたが、昭和二十六年八月頃鉄鋼界の不況とともに漸次悪化し、同年十二月以降その対策として、人員構成を適正にすべく配置転換を行い、経費を節減する等種々の打開策を講じてきたこと、原告会社が主張のような整理基準を定め、全従業員から被解雇者の選考を行つたことを認め、その他の事実を争う。

(二) 同第二項の(二)中、原告会社は昭和二十七年五月十五日第一次整理該当者として百十五名を、同年六月第二次整理該当者として九十名を同年七月四日第三次整理該当者として八十九名をそれぞれ解雇し、結局定員を上廻る従業員を解雇したことを認め、その他の事実を争う。

(三) 同第二項の(三)中、原告会社は昭和二十七年五月十五日(第一次整理)上岡正男を解雇したこと、当時同人は工作課鉄工係熔接部に勤務していたことを認め、その他の事実を争う。

(四) 同第二項の(四)の事実は争う。

四、請求の原因第三項中被告が原告主張のように上岡正男に対する解雇はその組合活動の故であると判断したことは認める。

五、被告の事実上の主張及び法律上の判断は、別紙命令書写理由中上岡正男に関する部分のとおりであつて、請求の原因第四項以下の事実中被告主張に反する部分はすべて争う。

六、なお命令書理由(認定した事実)第三項中、昭和二十六年九月頃精整部から選出された三名の委員とは小山、佐藤、曽我部であり、同数の委員を指名した職制上の者とはサカイ職長であり、本藤一に前記総務係員を通じとある係員は有山某であり、田中金吾の背後とは田中金吾を指示した組合員層という程の趣旨であり、藤田工作課長は人を通じとある人とは小畑某であり、職場の組合員に職場会議をもつな等の言動を行つてきた職制上の役付者とは松原課長、藤本係長、来栖伍長、公文主任らである。

第四証拠〈省略〉

理由

一、原告会社は肩書地に本店及び本社工場を大阪市内に各一つの事務所及び工場を、また大阪府泉大津市、広島県呉市に各一つの工場を有し、資本金五億円(本件発生当時は二億五千万円)、従業員約千六百名で鋼材加工業を営む株式会社であつて、シートバーを主要原料として薄板鋼板及び亜鉛鉄板の生産を主とし、他に圧延用の各種ロール及び特殊鋼、鋳鋼の生産を兼ね、派生品を利用して棒鋼三次製品を製造し、更に薄鋼品を原料とする琺瑯鉄器等の生産を行つている。そしてその従業員は淀川製鋼所労働組合を結成しており、上岡正男は昭和二十二年十二月原告会社鉄工課に工員として採用されて以来、右組合の組合員であり、工作課鉄工係において電気熔接の作業に従事中、昭和二十七年五月十五日企業整備に際し解雇通告を受けた。

そこで上岡正男は右解雇を同人の組合活動を理由とする不当労働行為であるとして、労働委員会に救済を申立て、被告委員会は再審査の結果、原告会社の上岡正男に対する解雇は同人の組合活動を理由とする不当労働行為であると認め、昭和二十八年十月十三日付で原告会社に対し同人を原職に復帰させるように命令した。その理由は別紙命令書写記載のとおりである。

以上の事実は当事者間に争がない。

(ところで原告は右命令書を昭和二十八年十月三十一日に受領したと主張するのに対し、被告委員会は右命令書を同月三十日原告会社に交付したと主張するので考えるに弁論の全趣旨によれば、被告委員会の命令書は早くも昭和二十八年十月三十日には原告会社に交付されたことが認められる。右命令書交付の日時は、本訴の出訴期間に関して問題となるが、原告が命令書の交付をうけてから、労働組合法第二十七条第六項によつて本訴を提起するに際して、同項に定められた三十日の出訴期間の末日は、同年十一月二十九日であるところ、同日は日曜日であるから翌三十日に満了することとなり、本件訴状は同三十日当裁判所が受理したことは記録上明かであるから、原告は本訴出訴期間の遵守につき欠けるところはない。)

二、原告会社における企業整備の必要性

原告会社の経理状況は昭和二十五年六月朝鮮事変の勃発に伴い、その余波をうけ比較的好調を持続してきたが、昭和二十六年八月頃鉄鋼界の不況とともに漸次悪化したので、会社は同年十二月以降その対策として合理化審議室を設けて研究し、従業員の人員構成を適正にすべく配置転換を行い、経費を節減する等種々の打開策を講じてきた。しかし業界の不況は更に深刻となり、操短問題が起つて他社では生産制限を実施する段階となつたが、会社は人員整理をさけるため昭和二十七年二月には社宅賃料の増額、通勤費会社負担の軽減、結婚資金の切下等厚生費の節減を行つた上に、同年五月から賃金中の生産給五百円削減を実施することとしたが、なお赤字を克服することができなかつた。そこで会社は一週五日作業を試みるに及んだが事業の見透しは好転せず、遂に同年五月中旬以降相当大巾な人員整理を行うこととなつた。

会社は右人員整理に適用するため次のような整理基準を作成した。

(一)長期欠勤者

(二)労働能率の低い者

(三)懲戒処分を受けた者

(四)定員制の実施による課別均衡の是正による配置転換の不可能なもの

(五)希望退職者

(六)以上五項目に該当しなくとも総合的に低成績者で常に業務上の指示に協力せず職場能率を阻害する者及び責任度と誠意を欠く者

会社は以上の基準に基いて各課長をして現場の役付(係員及び伍長等)の意見を徴した上、基準該当者を現場から内申させ、総務課でこれをとりまとめ、浜田専務の決裁を経て、五月十五日上岡を含む百五十一名を第一次人員整理該当者として就業規則第三十六条第一号「事業縮少又は事業上の都合による」に基き解雇通告した。

以上の事実は当事者間に争がない。

証人片野養蔵の証言及び同証言により真正に成立したものと認められる甲第一号証の一、同第二号証、成立に争のない乙第三号証の十五によれば、会社は右人員整理に際して、企業合理化の見地から従来使用していた圧延機八機を五機とし、メッキの四機を二機として操業を短縮し、それに伴う従業員の定員を一、三一三名と定め、(当時の従業員総数一、七二九名)それを上まわる人員を解雇することとしたが、圧延、精整部門は毎月自然退職者が三十名位いるので、此の部門は整理の対象から除外し、その上各課長、作業担当者の要望も入れて結局三百三十名を解雇することに決定したこと及び右の整理基準は昭和二十七年四月七日頃決定し浜田専務が各課長を集めて被整理者の詮衡に当らせ、同年五月十日頃までに序列表が総務課に提出され、片野総務課長が昭和二十六年十二月の成績表を右序列表とを対照して若干の訂正を加えた上、浜田専務の決裁を経て前記第一回の人員整理をしたことが認められる。

三、上岡正男の整理基準該当

上岡正男は右第一回の人員整理に前記整理基準第四項に基き解雇されたのであるが、会社の方針として前記基準はまず基準第一、第三、第五項を選考し、次に基準第二、第六項を選考し、最後に第四項が適用されることにしたので、第四項は他の五項目該当者を解雇しても職場別になお過剰人員が残る場合にはじめて当該職場内の各人の成績を比較して低位者を解雇する趣旨である。

上岡の職場である工作課鉄工係熔接部は四名の被解雇者を出したが、右の基準にあてはめると、森石親光は長期欠勤者(第一項)牛尾鉄三は希望退職者(第五項)、奥山好之助は見習工(第二、第六項)であつて、上岡は最後位の第四順位であつた。

以上の事実は当事者間に争がない。

ところで前記各証拠に、片野証人及び証人藤田竜雄の証言により真正に成立したものと認められる甲第一号証の二、同第三号証、同第四号証の一、二、成立に争のない乙第一号証の四及び証人藤田竜雄の証言を綜合すれば、昭和二十七年五月十五日(第一次整理)当時上岡の属する工作課鉄工係において、熔接作業に従業する従業員は十三名いたが、新定員は八名ときまり、被解雇者選定の際藤田工作課長は総務課長と相談の結果四名を解雇することになつたこと及び工作課に属する従業員の成績表は四月下旬藤田課長が作成して総務課に提出されたが、その時すでに上岡は熔接部の被解雇者に数えられており、かつ工作課全体の新定員は六十一名であつて、当時の現在員七十九名中上岡の成績は下から十一番目であるから、同課中において配置転換を考慮する余地もなく、また同人は事務系統の仕事にも適さないことが認められる。もつとも右証拠にあげた工作課員の成績表をみると三好勝と高石勝は同一人であり、しかも点数がちがうなどその記載には全面的に信をおきがたい点もないではないが、上岡の成績を採点するに当つて特に差別し、正当に評価すればその順位に変動を生ずるに拘らず、ことさらに低位に評価したことが認められるような証拠はなく、会社の定めた定員制についても特に不合理の認められない以上、上岡が整理基準第四項に該当するとされるのもやむをえないといわざるを得ない。

ところが、被告は右整理直後会社が同職場に人員不足のため現場事務員森口猛輝及び同年九月ロール課所属ガス熔接工湯浅勝海を配転増員し、かつ臨時に請負工一名を電気熔接工として使用したと認定しているが、前記藤田証人の証言によれば、森口は昭和二十四年四月以来工作課鉄鋼係に所属していた工員であるが、現場に出ないで事務所において工程関係の仕事をしていたところ、昭和二十七年三月会社の方針により工員名義の者は現場で働くことになり、上岡解雇以前から製罐作業に従事していたことが認められ、湯浅はロール課より工作課に配置転換したことは原告の認めるところであるが、前記藤田証人の証言によれば右配置転換は会社の作業合理化計画に基いて行われたもので、鉄鋼係が人員不足のためになされたのではなく、同人の作業内容も以前と変りないことが認められ、臨時工一名を電気熔接に使用しているとの事実はこれを認めるに足る証拠はない。

また被告は同年八月組合役員総辞職で専従をとかれた城戸三寿二は当時すでに六十才で就業規則による停年(五十五才)をすぎていたにもかかわらず、右熔接部に復帰していると認定しているので考えるに、城戸が専従をとかれて工作課に復帰した事実は原告の認めるところであり、前記藤田証人は城戸が工作課に復帰した時は停年をこえていたが、同人は長く会社に勤めており特殊技術を有し、会社が同人の意見を聞くために残している旨供述するが、証人白井芳雄の証言によれば、城戸を停年すぎても使つているのは、技術保存のためというよりは同人を使つている事が会社の組合対策に都合がよい場合があるためであることがうかがえないではないが、前記藤田証言によれば、城戸はもと鉄工係に所属し、復帰後も現場関係の仕事をせず、事務関係の仕事をしていることが認められるから、城戸の工作課復帰をもつて直ちに上岡の解雇が必要でなかつたとはいえない。

以上の認定に反する証人白井芳雄、上岡正男の証言は信用しがたく、他に右認定を左右するに足る証拠はない。してみれば上岡が整理基準に基き解雇されてもやむを得ない状態にあつたといわなければならない。

四、上岡正男の組合活動

証人白井芳雄、上岡正男の各証言及び成立に争のない乙第六号証の一ないし五によれば、上岡は昭和二十三年九月に組合青年部委員、昭和二十四年四月青年部常任委員となり、昭和二十五年十二月青年部解散まで教宣部長として青年部機関紙の編集責任者をしていたこと、昭和二十五年四月賃金引下げ反対の寮生デモに際し、その計画者の一人として参加指導したこと、昭和二十六年八月の飯尾課長左遷問題及び夏期一時金闘争、同年十月頃に起つた同じ職場の牛尾鉄三の解雇問題、昭和二十七年二月頃の厚生費切下げ問題、同年五月初旬の生産給五百円削減問題等に当つて職場会議などで発言したことは認められる。しかしながら次項に述べるような会社の態度を考慮にいれても、右のような上岡の組合活動が特に会社の注意をひき、会社が同人に対し敵意をいだき、本件企業整備に当つて同人をその組合活動の故に排除しようとした事実を認めるに足る証拠はない。

五、会社の組合介入的行為

更に被告は命令書理由(認定した事実)第三項において、組合は昭和二十五年末頃から沈滞におちいり、執行部は何等適切有効な対策をたてず、組合としてなすところない状況で終始し、この間会社の労務対策は組合との交渉を通じて行うよりも、むしろ職制を通じ組合員の日常活動に直接関心を示す傾向になつてきたとして、会社の組合員に対する圧迫の諸事実を認定している。そして成立に争のない乙第六号証の一ないし三及び証人西田宗一、白井芳雄、上岡正男の各証言を綜合すれば、組合は昭和二十五年十月のいわゆるレツド・パージによつて役員らの大量解雇が行われてから著しく弱体化し、執行部が軟弱となり、昭和二十六年の飯尾課長左遷反対運動、昭和二十七年初頭における厚生費切下反対運動等の問題でも、最初は会社と対立していたが、結末は組合員大衆不満のうちに、殆どすべて会社のいいなりになつてしまつたこと、かくしてこのような組合執行部の態度に対して、下部組合員大衆から批判がおこり、組合の職場会議、委員会において執行部の攻撃、鞭撻が行われるようになり、これらの組合の動きに対応して会社の組合に対する関心は、自ずから組合員の個々の言動に直接関心を示すようになつたことが認められる。

したがつて本件の不当労働行為の成否の認定に当つては、右のような会社の態度に留意しなければならないこと勿論であるけれども、被告委員会の認定した諸事実をさきに認定した上岡の整理基準該当の事実と対比して考えると、右事実から、直ちに上岡の解雇につき、会社の不当労働行為意思を推認することは困難であつて、さきに認定した事実をくつがえして会社の上岡に対する解雇を、不当労働行為であるとすることはできない。

六、よつて原告会社の上岡正男に対する解雇が労働組合法第七条第一号に該当するとして発した被告委員会の命令は違法であるから、その取消を求める原告の本訴請求は正当としてこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 千種達夫 綿引末男 高橋正憲)

(別紙)

命令書

再審査申立人 上岡正男

再審査申立人 山田友久

再審査被申立人 株式会社 淀川製鋼所

右当事者間の中労委昭和二十八年不再第五号不当労働行為再審査申立事件について、当委員会は昭和二十八年十月十三日第百七十三回公益委員会議において、会長公益委員中山伊知郎、公益委員細川潤一郎、同吾妻光俊、同佐々木良一、小林直人出席し、合議の上、つぎのとおり命令する。

主文

一、初審命令中再審査申立人上岡正男に関する部分を取消す。

二、再審査被申立人株式会社淀川製鋼所は、再審査申立人上岡正男に対する昭和二十七年五月十五日付解雇を取消し、同人を同日に遡つて原職(工作課鉄工係電気熔接)又はそれと同等の職に復歸させ、解雇から復歸にいたる期間に同人が受くべかりし賃金その他の諸給与を他の従業員と差別なく、同人に支払わなければならない。

三、再審査申立人山田友久の申立を棄却する。

理由

(認定した事実)

一、再審査被申立人株式会社淀川製鋼所(以下会社という)は、頭記住所に本店及び本社工場を有し、資本金五億円(本件発生当時は半額)従業員約千六百名で鋼材加工業を営む企業であつて、シートバーを主要原料として薄鋼板及び亜鉛鉄板の生産を主とし他に圧延用の各種ロール及び特殊鋼鋳鋼の生産を兼ね派生品を利用して棒鋼三次製品を製造し更に薄鋼品を原料とする琺瑯鉄器等の生産を行つている。

二、再審査申立人上岡正男、同山田友久は、いずれも会社の従業員であり、上岡は昭和二十二年十二月鉄工課工員として採用されて以来主文記載の職に従事中、山田は昭和二十四年二月製罐課工員として採用され昭和二十五年九月鍍金課へ配転後昭和二十六年六月工務課営繕係に配転昭和二十七年一月二十九日製罐課鋲螺部ネジ切職に配転同業務に従事中、いずれも昭和二十七年五月十五日企業整備に際し解雇通告をうけたものである。

三、再審査申立人両名が所属する淀川製鋼所労働組合(以下組合という)は、旧称全日本金属労働組合大阪支部淀川製鋼所分会と称し昭和二十五年までは比較的目立つた存在であつたが同年末頃から沈滞におち入り、一般組合員が組合の積極的行動を要望した諸問題、例えば昭和二十六年の飯尾課長左遷反対運動、昭和二十七年初頭における厚生費切下反対運動等の問題で組合員大衆中に相当不満の声があつたが、執行部は何等適切有効な対策を立てず、組合としてなすところない状況で終始した。

この間会社の労務対策は組合との交渉を通じて行うよりむしろ、職制を通じ組合員の日常活動に直接関心を示す傾向になつてきていた。例えば、

昭和二十六年九月頃精整部から選出された三名の委員がそれぞれ相ついで解雇されたので新に同数の委員を補充選挙したのに職制上の者が別に同数の委員を指名して委員会の運営を混乱させ、同じ頃組合教宣部長選挙に立候補した組合員清水隆実に工作課機械係主任大橋弘一は右立候補を辞退するよう勧告し、

同年十月頃組合員牛尾鉄三が一旦解雇を予告されそれが撤回となる前後総務係員有山某を通じ同人に爾後組合運動を一切やらない旨の誓約書を請求し、

昭和二十七年春頃伸鉄職場の組合員本藤一に前記総務係員を通じ当時組合長改選に当り前組合長城戸三寿二の対立候補として立候補した田中金吾の背後につき調査方を依頼し同じ頃片野総務課長が立候補中の右田中金吾方を訪問後同人が立候補を辞退した事実があり、

本件発生後たる同年八月頃常任委員に立候補した組合員白井芳雄に対し藤田工作課長は人を通じて立候補辞退を勧告し、

昭和二十八年二月頃書記長に立候補した前記白井に対し岩佐総務部次長に自ら立候補辞退を勧告した。

このような会社側の動きや組合執行部の弱体に対し不満をもつた職場の組合員は職場会議等職場における組合活動を通じて組合執行部を鞭撻したが、これが漸次会社の注目をひくにいたり、課長及び係員、伍長等の会社の職制上の役付者は屡々、職場の組合員に職場会議をもつな、もてば結局その部署全部がにらまれるし、動く者はクビになる、等の言動を行つてきた。

これらの事情のもとに昭和二十七年四月成立した城戸三寿二を組合長とする執行部は、後記五百円賃金削減問題及び人員整理問題をめぐつて特にたかまつた下部組合員の不満のために同年八月二十一日の臨時大会で不信任をうけ総辞職するにいたつた。

四、このような状況の下で申立人上岡正男は、昭和二十三年組合青年部役員に就任以来在任中は勿論青年部解散後も組合の職場組織において継続的に活溌な組合活動を行つてきたものと認められる。

即ち、申立人上岡は、昭和二十三年九月青年部委員に選出され情宣部面担当委員として青年部機関紙の編集を行う等組合員の啓蒙活動に従事したほか、昭和二十五年四月の賃金引下げ反対寮生デモを指導した。

また昭和二十五年末の青年部解散以後同人は、昭和二十六年八月の飯尾課長左遷問題および夏期一時金闘争に際して職場内で積極的に行動し、同年十月頃同じ職場の組合活動者牛尾鉄三解雇問題では職場会議においてその不当を追及して組合幹部の適切な措置を求め、結局会社をして撤回に導く有力な動機を作つた。更に同人は昭和二十七年二、三月の厚生費切下げ問題でも職場会議で反対の決議に導き、同年五月初旬会社が実施しようとした賃金中の生産給五百円削減問題でも同月五日以降連続的に開かれた職場会議で反対の先頭に立ち十四日の同会議で十三日に会社案を承認するにいたつた執行部を職場全員で激励することを提案しそれが可決されるや翌十五日代表者の一員となつて組合事務所で組合長等組合幹部に強硬な反対を推進するよう申入れる等のことを行つた申立人山田友久は昭和二十七年にいたつて前記厚生費切下げ及び五百円賃金削減反対運動に際して若干の職場活動を行つたことが認められるが、右以外については昭和二十四年二月入社以来特別の組合活動を認め難い。

五、昭和二十六年八月頃鉄鋼界の不況が始まるや、会社は合理化審議室を設けて諸般の対策を講じこれに基いて同年十二月および翌二十七年一月には過剰人員の配置転換を行つた。しかし業界の不況は更に深刻となり操短問題が起つて他社では生産制限を実施する段階となつたが会社は人員整理をさけるため厚生費の節減のため昭和二十七年二月には社宅賃料の増額、通勤費会社負担の軽減、結婚資金の切下等を行つた上に、同年五月から賃金中の生産給五百円削減を実施することとしたがなお赤字を克服することができなかつた。そこで会社は漸く一週五日作業を試みるに及んだが事業の見透しは好転せず遂にやむを得ず同年五月中旬以降相当大幅な人員整理を行うこととなつた。

会社は右人員整理に適用するため次のような整理基準を作成した。

(一)長期欠勤者

(二)労働能率の低い者

(三)懲戒処分を受けたもの

(四)定員制の実施による課別均衡の是正による配置転換の不可能なもの

(五)希望退職者

(六)以上五項目に該当しなくとも総合的に低成績者で常に業務上の指示に協力せず職場能率を阻害する者及び責任度と誠意を欠く者

会社は以上の基準に基いて各課長をして現場の役付(係員及び伍長等)の意見を徴した上基準該当者を現場から内申せしめ、総務課においてこれをとりまとめ、浜田専務の決裁を経て、五月十五日申立人上岡、同山田及び初審申立人土井政一を含む百五十一名を第一次人員整理該当者として就業規則第三十六条に基き解雇通告した。

ついで会社は同年六月十八日に第二次(製罐課閉鎖を含む九十名)七月四日に第三次(初審申立人小林治雄を含む八十九名)の人員整理を行い、合計三百三十名を整理した。

右のうち第一次人員整理の組合に対する通告は、会社が五月十五日正午頃電話で組合三役を招き、浜田専務から口頭で行われた。これに対し組合は組合としての態度決定まで実施の延期及び該当人員と解雇理由の提示を求めたが、会社はそれを無視し前記基準をも示すことなく午後一時半頃から申立人両名をふくむ第一次人員整理該当者を各個に呼び出し、口頭で解雇を通告した。その際整理基準や解雇理由については本人の納得するような説明は行われなかつた。

六、申立人両名はいずれも前記整理基準第四項に基き、就業規則第三十六条第一号「事業縮小又は事業上の都合による」ものとして解雇されたものである。

前記の基準は会社の主張によると、先ず基準第一、第三、第五項を選考し、次に基準第二、第六項を選考し、最後に第四項が、適用されるというのであるから、第四項は他の五項目該当者を解雇しても職場別になお過剰人員が残る場合にはじめて当該職場内の各人の成績を比較して低位者を解雇するという趣旨であると認められる。

上岡の職場である工作課鉄工係熔接部は四名の被解雇者を出したが右の基準をあてはめると、森石親光は長期欠勤者(第一項)牛尾鉄三は希望退職者(第五項)奥山好之助は見習工(第二、第六項)であつて申立人上岡は最後位の第四順位であつたことが明らかである。したがつて、上岡が右の三名を除き当該職場に於て最低位であつたか否かは別として、同人が解雇されるには右三名を除いても当該職場がなお人員過剰であつたことにならなければならない。

ところが、この整理直後同職場に人員不足のため現場事務員森口猛輝及び同年九月ロール課所属ガス熔接工湯淺勝海を配転増員しかつ臨時に請負工一名を電気熔接工として使用している事実がある。更に又同年八月組合役員総辞職で専従をとかれた城戸三寿二は当時すでに六十歳で就業規則による停年(五十五歳)をすぎていたにもかかわらず右熔接部に復帰している事実がある。従つて右熔接部が上岡の整理を必要としていたとは認め難い。

山田の職場である製罐課鋲螺部では第一次整理ではネジ切工四名中同人一名が整理されたものであるがその一ケ月後の第二次整理において同課は閉鎖となり一名を除いて全員解雇となつた。

(当委員会の判断)

以上認定した事実に基いて判断するに、

再審査申立人山田については、前述の如きその職場における組合活動が特に会社の注意をひく程度のものであつたとは認め難く、従つて企業整備に便乗した組合活動者の解雇と認定することは困難であるから爾余の点については判断するまでもなく不当労働行為の成立を認めるに由ない。

これに反し、再審査申立人上岡については、新定員制(それは必ずしも正確には実施されなかつた)に基く今次人員整理において本来過剰人員であつたという事情が認められないのみならず、たとえ同人の職場において四名の人員整理が必要だとしてもその四名中に同人を含ましめねばならない明確な根拠に乏しい。

会社は上岡は組合活動を行つていないし若し行つていたとしても知らなかつたと主張し、初審命令もこの点に関連して上岡の組合活動は顕著でなく解雇の決定的原因とは認め難い旨判示したけれども上岡が解雇当時は一組合員にすぎず従つて対外的には役員の場合にくらべ顕著な組合活動をしていないとしたところで、同人が職場会議等においてなした組合活動が継続的でありまたきわめて活溌であつたことは認めうるし、同人の組合活動が本件のような組合事情および会社が組合員の日常活動に対する異常な関心を示しかつ前述のように組合の行動に対し干渉的であつた場合において会社側の注目を惹かなかつたはずはないのであり、更に、会社が同人を被整理者に該当するとして解雇したのはまさに同人が積極的に会社の方針に反対して活動していたところの五百円賃下げ反対運動の最中であつたという事実を考え合わせると、名を人員整理にかりてはいても本件上岡の解雇がその組合活動の故をもつてなされたものと断ぜざるを得ない。

以上の通り、結局再審査申立人上岡の再審査申立は理由があり、再審査申立人山田の再審査申立は理由がないので、労働組合法第二十五条、第二十七条、中央労働委員会規則第五十五条を適用して、主文のとおり命令する。

昭和二十八年十月十三日

中央労働委員会

会長 中山伊知郎

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